神の真似をする猿の末裔
すいません、酔っぱらいの戯言みたいなもんです。技術的・市場的情報皆無です。
造形的、という言葉をここでわざわざ使用した。 というのも、フィギュアとアートを峻別するためである。

なんか、いつもいつも時間がとれず、結局アブストラクトでしか触れていないProjectKO2。 フィギュアはアート足り得るかという命題の検証に燃えている。
後藤の超個人的なコレクター様的(および若干ながらモデラー的^_^;)見地からいくと、自分のやっていることがアートなのかどうかなどという定義なぞどうでもよろしい。 自分がこの世界にどっぷり浸かり続けるための条件・基準は、精神的充足を得られるか否かのみにかかっているのであり、実体さえ満たされればその呼ばれ方なぞ些細なことである。 「ライス」と呼ばれようが「ご飯」と呼ばれようが後藤は気にしない。
聞くところによると、前回のProjectKo2の結論は、「フィギュア=アート」というわけではなく、「フィギュアの本道であればある程、従来のアートのコンテクストより遠ざかっていくものである」(WF1999冬公式ガイドブックpp.6より抜粋)だそうである。
「一流」の芸術家の方を前にしてこーゆーのもなんだが「なーに、馬鹿なこといってんだか...」という感想である。

と、ここで論を止めてしまうと話にならんので、「どっちでもいーや」という結論はひとまず凍結して、フィギュアとアートとは本当に異なるのかということを考える。

これには、まず、フィギュア、アートそれぞれの語義を明確にしなくてはならない。 フィギュアの定義はここにくるような方には「明白(うご、証明問題でどう証明してよいかわからなかったときに多用したフレーズ^_^;;;)」であるとして割愛して、芸術(アート)の定義である。 といったところで、芸術の定義とはなんぞや、などということは、単なる技術者である後藤にはわけわからん世界であるが、一般には「神の業たる創造を、人の手によって模倣すること」という定義がされているらしい。 すなわち、人為的に小宇宙(ミクロコスモス)を造ること。 まあ、人間の想像力などたかがしれているから、創造なぞといっても、今、現にあるものを組み合わせてなんらかの世界を構築することがせいぜい。 そのような定義から行けば、人間の体に類したパーツを寄せ集め、それにあり得ないほどのカリカルチュアライズを施したアニメ系フィギュアとは、絶対に自然界に存在しえない形態を造出している。
従ってフィギュアはアートである。

しかし、ProjectKo2の結論はフィギュアとアートは一致するものではなかった。
であれば、きっと開始点たる芸術の定義が異なっていたのであろう。 それでは、芸術の直接的な定義は使用せず、効用的な側面から見た比較を行おう。 芸術の効用とはなにか、これは音「楽」の言葉が示すように、「楽」を与える、 すなわち「心に喜びを与える」ものと思ってよいであろう。
しかし、現実に目を向けると、一般の人々にとって、いわゆる「芸術」に対するアティテュードというものは、やや胡散臭い非生産的なんだけど自己犠牲的な高尚さも併せ持つという、ひとことでいってしまうと「わけわからん」ものではないだろうか。 現代と呼ばれる時代になると、芸術村の住人にしか理解し得ないものが真の芸術という風潮が高まっている。 言ってしまえば、その限られた職能の人たちしか造りえずかつまた評価すらできない、という点では中世における密教やカバラのような閉鎖的宗教集団にその例を見いだすことが出来、それゆえそれら閉鎖的宗教集団に対する中世人の畏怖と軽蔑に類似するものを現代人が現代芸術におぼえたとしてもなんら不思議はない。 日本では特に、理解できないものこそ高尚なもの、本物であるとの信仰が強いように思える。 このような密教的ハローをまとった芸術村芸術には、そのハローなりの権威こそ持つが、 一般の人々が絵画や音楽に求める「楽」は本来情動的なものであるのに、何らかの理性的解釈のプロセス(それも通常の人々の持ちえないプロセス)を強要するものが本当に楽しいのか? それが苦役であれば、そのような芸術をあえて鑑賞するのは「楽しみ」でない、なにか他の理由があるのであろう。例えば、「教養ある」ことを示すためのような。 すなわち、効用は「ステータスの明示」
「心へ喜びを与えること」と「ステータスの明示」、いずれが芸術の本当の効用なのか? それはここでは気にしなくてよい。 重要なのは、自己完結的評価しかなしえない(従って理解できない)いわゆる「芸術」の主効用はプレステージを高めることであり、より理解しやすい「煩悩的^_^;」フィギュアの方が、より「心に喜びを与える」という効用を持つという意味で、効用が全く異なるということである。 だとしたら、フィギュアとアートは異なるものである。

ここまでのところ、全く相反するふたつの結論を得た。 フィギュアはアートである、およびフィギュアはアートでない、と。 さて、先ほどから、芸術は一枚板、すなわちこれは芸術、これは芸術でない、と、明確に線引き出来る概念のように扱っていた。 しかし、この仮定は正当であろうか?
芸術が芸術を逸脱する運命、というものはありえそうに見える。 シュールレアリスムや印象派のような名前のしられている芸術の一ムーブメントにしても、 当時の芸術の範疇を超えたものであった。 ならば、現在の芸術の物差しで測れないものが後世に芸術と呼ばれる可能性は否定できない、 たとえば、そう、フィギュアとか。 もともとフィギュアの持つ属性は、ルネ・ホッケのいうところのマニエリスムにも比すべきもの、トロンプ・ルイユの幻覚的効果の実践たるものであり、それら異端派であれいわゆる芸術の一派としてとらえられるものとどれだけの隔たりがあるのであろうか? フィギュアとはそれら世紀末芸術の正当なる後継者(まー、ふつー焼き直しとか言うわな^_^;)とは言えないか?
芸術の線引きができないのであれば、芸術であるか否か、とは命題になりえない? つまり、フィギュアはアートか?とは質問(少なくともYes/Noで答えるタイプの質問)になりえないのではないのか? これが「なんだかなー」と思う最大の原因である。

最初にも述べたように、後藤にとってはフィギュアがアートであろうとなかろうと知ったことではない。 しかし、フィギュアはアートでないから、アートに劣る、とさげすまれるのは看過できない。
その意味では、後藤は芸術的と造形的という言葉を使い分ける。 別にアートと同一化したいわけでもない、してもかまわない。 だが、先方が区別をしたいのであれば、それに従ってあげよう。 その方が会話が楽だから。 後藤の所属する陣営に誇りを持って。
で、後藤は芸術家たる自覚も指向もないから、自分の煩悩のおもむくまま 「うーん、このマルチのほっぺ、とってもぷにー^o^」とかやっているし、それでしごく満足しているのである。


重要な追記(1999-04-05)
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