俗にいう「プラモデル」は金属製の型をもちいて熱可塑性のスチロール樹脂を材料につくられています。
これは安くかつ大量に生産できるというメリットを持つのですが、金属製の型ですから、
逆テーパー(断面Sと任意の直線Lを考えたとき、断面Sとの交点が2点より多くなる直線Lに平行な直線L’が必ず存在する形状...うまくわかりやすく説明できん-_-;
直感的にいうと、内側にまわりこんだような形状です)は許されません。
一方、ガレキはゴムの型で柔軟性がありますから、「多少の」逆テーパーは問題ありません。
一般に服のしわや髪は多少の逆テーパーを含みますから、このようなものをガレキでは自然に表現できることになります。
複製の精度も、誤ってつけた指紋が複製されてしまうぐらい高いですので、
かなり自由に原型モデルをつくり、複製することができます。
また、より重要なことに、ガレキの製造には設備投資がほとんどいらない、ということがあげられます。
金型の作成には数百万から数千万円という巨額の費用がかかり、
その金型を用いて成形を行う設備には、とても個人でまかなえるような額では足りません。
一方ガレキは、というと、キロあたり数千円のシリコンゴム数キロと、
注形剤としてのウレタン・レジン・エポキシ(これも高々キロあたり数千円)があれば始められます。
ですから、個人でもキットの製造が可能になります。
このように手軽にかつ忠実に自分のつくった作品の複製ができるわけですから、
プロ・アマ問わず数多くの人たちが(私も含めて^_^;)実際にガレキ製造をてがけています。
自分の好みのキャラクターを模型という手に取れる形として残すために、
日夜「自分の**ちゃん」を目指して制作にいそしんで(^_^;)います。
さて、今度は逆に、買う側の立場からガレキを眺めてみましょう。
まず、一般にガレキはプラモデルに比べると少量多品種生産です。
シリコンゴムの型は耐久力が金型に比べると格段に落ちますし、
製造方法は家内製手工業の域を出ませんから、
製造数は高々数百(千個までいくのは珍しいです)、
個人の制作では10個とか数個とかのオーダーになることもあります。
これは、すなわち、見つけたときに買わないといつ買えるかわからない、ということはおろか、
販売経路によってはまったく入手不可、ということになります。
また、材料費の関係から一個あたりの単価も高いという短所があります
(とはいっても最近のプラモデルの価格の急上昇がありますので、
一桁は違いません、という程度でおさまりますが^_^;)。
現在(1996年時点)でのガレキの価格は、ものにも大きく依存するので一概にはいえないのですが、
スケールで分類して大まかに値付けすると1/12で2000円から4000円程度、
1/8で3000円から10000円弱、
1/6で5000円から15000円程度、というところでしょうか。
最近はガレキが大型化する傾向がありますので、価格も上昇気味で、
2万や3万円もするキットも珍しくありません。
このように高い手に入りにくいと、とても人に勧めやすいというものではありません。
それでもなお、ガレキの愛好者が数多くいる、という事実自体が、
高価格という欠点を補ってあまりある価値をガレキに見出している、
ということを示していると考えます。
最近では雑誌やTVなどのマスメディアでも取り上げられることが多くなり、
またワンフェスなどのイベントでは万単位の動員がなされているように、
「ガレージキット」という用語の社会的認知度は向上しています。
その一方で「好きなものをつくる」という原点から離れた
「売れそうなものをつくる」、という単なる商業主義もまた蔓延しつつあります。
それでも、まだ、趣味人が趣味でつくるフィギュアが存在する限り、
私はこの世界から足を抜けそうにありません。弱った弱った。
それでは、次に、そのガレージキットの歴史を見てみることにしましょう。
さて、このように、私たちの先人が1/35のミリタリーフィギュアとタミヤパテのみを武器に苦闘していたころ、
重要な変化が起きました。
ひとつは、1980年の田宮による1/20(あれ?1/24だったかな?)のミリタリーフィギュアの発売、
および1979年のTVアニメ「機動戦士ガンダム」の放映です。
前者はあまり目立たない変化であったかもしれません。
パットンやロンメルなどの有名な将軍を1/20でキット化したものです。
特筆すべきことは、彼らにはそれぞれパットンだ、ロンメルだ、といえる個性のある顔・表情があったことです。
1/20というスケールのフィギュアは、1/35スケールのフィギュアに比べて、
格段に顔の造りや表情の表現がしやすいものです。
極論してしまうと、1/20というのは、
ごく普通のモデラーがある特定のキャラクターとして明確に識別しうる顔をつくれる
最小のサイズなのです。
そのような模型が、改造のベースとしてごく普通に入手できるようになったのです。
後者については多くを語る必要はないでしょう。
それまでのアニメに比べてより「リアル」な世界観とその道具立ては、
ミリタリーモデルの手法やそのコンセプト自体をキャラクターモデルの世界に導入することを可能にしました。
そして、これらが融合して、運命の1981年となるのです。
1981年、それはあらゆる意味で「フィギュア」の歴史を語る上でのターニングポイントといえるでしょう。
この年、いわゆる「ガンプラ」の一翼として、「ガンダム・キャラコレ」がバンダイから発売されました。
セイラさんがプラモデルとして販売されたわけです。ただ買ってきて色を塗れば、もうそれだけでセイラさんなのです。
素組みでもセイラさんですし、ごくわずかな改造でビキニにもセーラー服にも、そして他の安彦キャラ、たとえばクラッシャージョウのアルフィンになってしまうのです。
「キャラコレ」としてシャア、マチルダ、アムロ、セイラ、カイ、フラウ、ララァ、ブライト、イセリナ、ガルマの10種がリリースされました。
一つ100円という手軽さもあり、改造のベースとして重宝され、多くのスクラッチビルダを産むキッカケとなりました。
翌1982年、うる星やつらのラムがバンダイから4種リリース、
これはスケールが1/12になり、より改造のベースとして容易なものでした。
改造ベースを得たという以上に重要なことが、ここにおいて、アニメフィギュアモデルが模型の一分野であることが認知されるようになったことを特記したいと思います。
また、これと時を前後して、タカラから「改造くん」の名でエポキシパテが発売されたことも見逃せません。
それまでよく使用されていたタミヤパテはパテの溶剤が蒸発することで硬化するタイプでしたので、体積/表面積比が大きくなると、すなわち盛り付けを厚くすると、なかなか乾燥しない、という欠点がありました。硬化する途中でヒケ(体積の減少)もあり、大きなパーツの改造には不向きです。これが、エポキシパテですと、2種の材料(主剤と硬化剤)を混合して化学的に硬化させますので、硬化時間は盛り付けの量に依存しませんし、硬化時のヒケも少なく、さらに粘土のように形をつくることができるため、改造の材料として優れたものです。これらの素材と道具を与えられ、数多くの改造例が「ファンロード」などの雑誌にとりあげられるようになってきました。
もうこのあとは1983年にバンダイから1/12ミンキーモモ(できはよいのですが、中空(よく、モナカと呼んでました)なので、改造の母体としてはあまり使い勝手がよくありません)がでたり、
アリイ・イマイからリン・ミンメイや早瀬未沙がでるなど、フィギュアモデルがキットとして認知されるようになりました。
プラモデル改造で腕を磨いたモデラーがおり、かつよい造形材料も出、さらに「フィギュア」なる分野の認知が向上して、ここにガレキ土壌は十分に醸成されました。
注1:自動車模型のディオラマ制作用に田宮やニチモから1/24〜1/20のフィギュア(そのなかには女性フィギュアもまじっていた)が発売されていましたが、ミリタリーフィギュアに比べると高価で入手も困難でした。
この火をもたらしたプロメテウス-少なくともフィギュアドメインにおいては-こそ、秋山徹郎氏でした。思えば、バンダイから月刊情報小冊子としてでていた「模型情報」において、氏原型のミンキーモモのレジンキットが読者プレゼントとして出ており、それに当選してしまったことが、後藤のその後の20年弱現在に至るまでの趣味の方向性を決定付けたともいえます(笑)。1980年代初頭における「ファンロード(ラポート株式会社)」のケッダーマンコレクションというタイトルの立体物の読者投稿ページは、フルスクラッチフィギュアすなわちガレージキット原型師の梁山泊とも言える活況を呈してしましたが、そこで活躍されていた秋山氏は、あさの氏(現スタジオキュービックス代表)や伊藤氏(現あかきサイクロン主宰)らと伴に、OFF(Original Figure Factory)を立ち上げ、1983年に発刊したOFFワークブック(これは1988年までに通算5巻発行)において、その複製技術やフルスクラッチの技法を公開していったのです。当時のキットはスケール的には1/20から1/12程度と現在から較べるとかなり小さめなものが中心であったのは、やはりバンダイの1/20キャラコレ改造から入った人が多かったからからでしょうか。ともあれ、火は人の手に渡りました。
初期の作品こそ、「キャラクターのコスプレした女のコ」のようなものでしたが、数年を経た1980年代後半までには、越智信善氏やK.Piero氏、ボーメ氏らの手になる、オタク心の表出とも言えるキットが続々と出ていました。造りたい人がその熱意の全てを込めて造るキット。損得勘定や生産性などは二次的なものとして造形されたとき、従来の市販キットを凌駕したものが単に手を染めている原型師数の多さから来る統計的結果以上に出て来ることは当然とも言える帰結です。これらの多くは「うる星やつら」を中心としたいわゆる高橋留美子系キットであり、越智氏やK.Piero氏原型のラムキットを皆がこぞって入手しようとやっきになっていた時代でした。
ガレージキットの隆盛に合わせ、否、その隆盛をお膳立てたものとして、ガレキの流通体制の整備も無視出来ません。
それまで、コミックマーケットの片隅や、極めて限定された小売店(例えば、MPGのキットであれば東京蒲田のむげんで、FFCのキットであれば宮城県の仙台模型や旗の台のエースモデルというような)で細々と売られていたり、挙句の果ては個人的なツテ(後藤の場合、秋山氏キットの入手ルートは、氏の大学の先輩でありかつ後藤のテーブルトークRPG仲間であった方経由といった具合の)という極めてプライベートなルートでしか手に入らなかったガレージキットでしたが、1980年代中葉にはゼネラルプロダクツ(現GAINAX)によるワンダーフェスティバル(WFと略称。1992年より海洋堂主催)、 それと前後してのホビージャパンフェスティバル(後のJAF-CON)のような、ガレキがそれなりに中心的な役割を果たすイベントが開催されるようになり、このイベントにおいてガレキが流通するようになりました。これにより、ガレキユーザは、原型師の知り合いでなくても、東京浜松町の東京都立産業貿易センタービルにさえ行けばガレキが手に入る、少なくとも直接目にすることができる、というような場を得たのです。個人的繋がりを不要としたことで、ガレキユーザ数は増大しました。そして、そのガレキユーザがガレキメーカ・原型師に転化するのは簡単なこと。1984年にはカタログ誌としての模型情報別冊「プリティ・フィギュア」や、純模型誌以外にも型取り・複製講座を含むコミックボンボン別冊「スーパーモデリング」や別冊テレビランド「ホビーボーイ」が発行され、1986年には当時存在していたフィギュア造形・複製手法の集大成たるHOBBY JAPAN別冊「オール・ザット・フィギュア」のような発行量の大きなテキストも出版さたようにモデラーコミュニティ内でのプレゼンスを高め、ガレージキットの原型を作るということが「極めて特殊なこと」とは言いきれない、少なくとも小さなコミュニティを作るに足るだけの人々がガレキに手を染めるようになりました。そして彼等の造るガレキに惹かれて新たなガレキユーザが参加し、そのガレキユーザが原型師に転化して造ったキットが新たなユーザを呼びこむという拡大再生産を果たしていました。ある意味、ガレキの夏、ともいえる時期だったのでしょう。
オリジナルキットとは、キャラクター的萌えにではなく、シチュエーション的なもの、フェティッシュとさえいえるものに造形能力を傾けたキットであるとも定義できるかと思います。すなわち、従来の主流であったアニメ方向から眺めたキャラ萌え中心キットではなく、新たな、模型方向から眺めたキャラ間汎用的かつ原型師個人的造形解釈構成キットと言えると思います。
解釈や好みを再優先に練りこむ流れは、その前からも存在していました。例えば、1980年代後半にK.Piero氏やボーメ氏も含む多くの原型師によって造られたまどか@「きまぐれオレンジロード」の一連の作品群は、きわめてチーズケーキ色が濃く、「まどか」であること以上に「脚線」の造りに傾倒したものでした。その系統を明確に示したのが、1988年に「空が好き」からリリースされた四つん這いのアニス=ファームキット(澁谷氏原型)だったと思います。これは後日、ムサシヤから「鏡の国のアニス」シリーズの一作目として一般発売されたもので、それまでの、原作・設定画・イラストをもとに忠実に似せるというやり方とは異なり、同人誌的手法、言いかえると、原型師の解釈や好みを元設定以上に前面に強く打ち出したものでした。
このような、別の意味で同人誌的な要素-低きに流れる(笑)煩悩-を強く打ち出すことは、オリジナルキットにおいてはもっとも素直かつ強力な戦術です。そして、オリジナルキットの台頭がそのような煩悩方法論のキャラクターキットへの還流を促すことで、なんか平均的にエロくなった(笑)という表層的事象を付加しただけでなく、ガレージキットのドメイン全体に、似ている・似ていないという従来基準に加えて、面白い・面白くないという評価基準をも導入したのです。一つの例をあげると、プロポーションや顔の造作などの外面的な相似を求めることに加え、構成やポージングを積極的に用いて内面的な表現をも重視するようになってきたのです。
キャラクターに似せることから、キャラクターをベースに何かしら加減してみるという自由度を得たこと、これはすなわち、元ネタを原型師が噛み砕き再構成する必要が、原型師ごとの解釈の必要がでてくるということです。よって、原型師ごとにその解釈、ひいては出来に大きな差がでてくることになり、必然的に原型師名の前面への露出がなされてきます。そのなかで出てきたのが竜人氏や智恵理氏であり、その解釈・造形が独特であるからこそ「竜人風」「智恵理風」のような言い方が許される、という流れができあがってきました。
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